2011/05/17

第3回「ベニスに死す」より、我々の愛するタッジオ

学生の頃に買ったVHSで映画「ベニスに死す」を再度試聴した。



描く者と描かれる者、恋する者と恋されるものとの間には絶対的な差別が存在する。絶対的な差異が。
しかしそれは、なんと狂おしく切ない愛の差別であろうか。
ヴェネツィアの運河をゆっくりと進む船と、我々を物語に導くマーラーの官能的な楽曲。静養先で画家は、ホテルで見かけた美少年の虜になり、彼を捜して夜な夜な街を彷徨う。やがて町には疫病が蔓延するが脱出する事もせず、思慕と病に蝕まれ、腐るように死んでゆく・・・。



監督ヴィスコンティがヨーロッパ中を探しまわってやっと見つけたという少年タッジオ---ビョルン・アンドレセンの、闇の中から煌煌と浮かび上がるような、怜悧で妖しい美しさ。
劇中、少年は一言も発さない。ただ朽ちゆく老作曲家を一瞥し、身を翻してどこかに消える。
かように美しく霊威ある 「描かれるべき存在」は、どうして常に我々を見捨て、我々のもとから去ってゆこうとするのだろうか。



例えば室生犀星の小説「或る少女の死まで」では、汚れを知らない少女は人間達を取り残し、この世界から飛び去ってゆく。小川洋子の最高傑作「ホテルアイリス」-異議は認めない-で主人公の少女は、死んだ恋人の翻訳家を忘れられない。残りの一生を全て余生として過ごすほどに・・・。
生きるにしろ死に行くにしろ、恋される存在は未来に臨まれ、過去は美しい結晶になる。
一方で、恋する愚かな我々はいつも取り残されるのだ。だから、なにかしら創作というものは苦しい。
暗くて、じめじめとして、さらには極寒。
聞くところによると、ベニスの冬もそのようなものであるらしい。
訪れるなら、作曲家のように夏が良いとのこと。
これからは観光のシーズンですね。





(2011.5.11 配信)