2012/11/11

第二十一回『ああ「薔薇色の」ミシマユキオ』

仮面の告白はなにやら親戚の女が登場してから読むのをやめました、とかそういう話ではない。



三島由紀夫らしからぬ実直な青春物語、としばしば表現されはする。が、「潮騒」も代表作の一つには違いない。一言で言えば離島の漁村の恋物語ってことになる。
三島先生の鍛え上げた肉体からむわっと汗が立ち上ってくるのを眼前で見てしまったかのようで、これも「らしい」のだろうと思う。緻密に描写される作品世界は、まるでハイビジョン放送のように解像度高く時に荒々しく、見知らぬ漁村と三島先生の汗と毛穴を見せるんである。 
惹かれあう新治と初枝はあらゆる近代的な病から漂白されており、原始的な神話の世界にとどまりながら、人とかかわりあいながら強く、自然に生きていこうとする。その様がとても素朴で、すがすがしく気高い。むさくるしいけど。文化とか文明の成長?と人間の本質的な成長って違うかなぁとか、なんかそういう感じだと思うんですけど。 説明終わり。



しかしそれにしても、初枝の裸体に対する「薔薇色の」という表現があったけれど、奇妙に都会的な猥雑さがある。過剰に文化的である。
歌島に薔薇は咲いているのだろうか?咲いていたとしても、あるべきふさわしい原生の薔薇は、「薔薇色の」という表現によって想像されるものだろうか?
もちろん赤とか黄色とか、色相環上の話をしているのではない。「薔薇色の」の、文化的背景とメンタリティを問うているのである。
主人公による小説ではなくて語り手の小説、その語り手とはっきりと目が合ってしまったというか、なんていうか、ストリップ小屋に行ったら舞台を挟んで反対側に陰の支配人ミシマがいて、その目がギラギラと輝いているのを見てしまい、ここがストリップ小屋だと気づいてしまったよーな気がしないかどーかどーなんだ。


断っておくが、ゴーギャンが描いたタヒチの話をしても、どちらの作品がおとしめられるとも思わない。それでもここでの「薔薇色の」という言葉は、存在感がある。別に男色の話ではなくとも。




(2012.11.11 配信)