2011/12/11

第10回 愛と魂のチキンラーメン賛歌

  チキンラーメンって超すごいと思う。表現のありようとしてチキンラーメンは優れていると思う。
願わくば、私はチキンラーメンのようでありたいと思うほどだ。これは袋に入っている奴の話で、カップに入ってるあいつは、世を忍ぶ仮の姿よね。
これからチキンラーメンがどんな風にすばらしくて、かっこいいラーメンかみなさんに説明しますね。


まず、これが一番重要なんだけど、チキンラーメンは、基本的にはまあラーメンであって麺が汁に浸っているからラーメンであると言うスタイルを継承してるんだけど、既存のラーメンと言うものを全く問題にしていない。
これが重要ですね。
たとえば豚骨の即席麺とか、醤油味カップラーメンというのは、ラーメン屋とか中華料理屋さんとかで食べれるいわゆる「ラーメン」の模倣というか、レプリカじゃないですか。独創性が全く無いじゃないですか!その点チキンラーメンは、なんていうかぜんぜん目指すものが違うよね。リアリティを問題にしてないというか。「チキンラーメン」のまえにチキンラーメンなくチキンラーメンの跡にチキンラーメン無い。べつにチキンラーメンて、即席めんであることに超プライドを持ってるし、自分に自身があるから絶対高望みしない。お前らは確かに珍しい。でもおれはこうなんだ、という。でも即席めん。その誇り高きチープさが、チキンラーメンというものを作り上げてる。
普通のラーメンとは別コースをひたすら猛スピードで逆走し続けてもうぜんぶバックミラーから消えてんです!これは、いったいどれほどの勇気が必要なことだろうか。王道でありながらの激しい反逆と反骨の精神。チキンラーメンはいわばラーメン界の裏番なのだ。
あと、卵を入れてもいいし、いれなくてもいいという懐の深さ、シンプルでありながらあふれる多様性、鑑賞者参加型インスタレーションじゃん。お好きなように小粋にアレンジメント。
卵入れればタンパク質とか取れるし、ていうか、むしろ卵入れれば他のもの入れるって言う余計な事考えなくていいじゃん。他の袋ラーメンは卵しかいれなかったら明らかに手抜きだけど、チキンラーメンは卵入れるだけで完璧じゃん。ていうか、おやつとして粉々に砕いて食べてもいいじゃん(多分)。なんて美しいの?
卵を入れなくてもチキンラーメンはチキンラーメンとして成立するし、卵を入れる事でさらにチキンというものの幅を奥深く感じる事が出来る。チキン麺の上で暖められる割られた卵は、羽化する事のない徒花のようだ。おいしく戴きます。
そして、卵を入れるくぼみね。そういうの優しさじゃん。
デザインで大事なのってデザイナーの自己主張じゃないじゃん多分。使う人へのおもいやりじゃん。チキンラーメンだからって乾燥麺が鳥の形してたら困るっしょ。だからチキンラーメンは普通に四角いし。しかも卵入れるポケットついてる。話の分かる奴だ。
あと専用の丼あるじゃん。こういうものをどんどん統一していけばエコで、ユニバーサルデザインだよね!どんどんチキンラーメン的な即席麺にしていけばいいよね。ひとり一つもてばカップラーメンのカップ部分いらないじゃん=一人一丼制度ってかんじで。
お皿を洗うのが面倒な人は、常に休みなくチキンラーメンを食べ続けてください!
あ!とついでに言えば,粉の入ってる袋もなく、袋に麺が入ってるだけだし。シンプル且つ、スペースに無駄がない。 なんてこった。
まるで、初めてギリシア哲学に触れた子供のような衝撃を、チキンラーメンはわれわれに思い出させてくれた。
チキンラーメンには、デザインの心が詰まっていると思います。
私にはデザインのことはよくわかりませんが、とにかくチキンラーメンのようでありたいのです。



(2011.12.11 配信)

2011/11/13

第9回 「東京島」あぁあ、女優におもうもの!

女優女優女優!!!


例えば。これからここに女優さんが来ますというと、誰もが単純に「どんな美しいひとが来るのだろう」と期待してしまう事だろう。しかしもちろん、色々な役 があって色々な俳優がいるので、その限りではないし、なんというか言いがたいのだけど、そんな事では話がすまないじゃないかとやけに噛み付きたくなるんだ けれど私は。桐野夏生の小説「東京島」の映画を見た。小説も見た。

32 人が流れ着いた太平洋の涯の島に、女は清子ひとりだけ。いつまで待っても、無人島に助けの船は来ず、いつしか皆は島をトウキョウ島と呼ぶようになる。果たして、ここは地獄か、楽園か? いつか脱出できるのか——。(小説版解説より)

何故!何故!木村多江なのか!?
どうしてこうなった!?なんて言うか、この人が美しいかは意見が分かれるのかもしれないけど(私は美人だと思う)、問題はそうじゃなくて、現代的且つ小綺麗であり過ぎじゃないでしょうか!?
というか、もっと正直に言うと、こういう人が身の回りに居たら同性は絶対に「この女はヤバい」と本能的に警戒するタイプなのであって、ナチュラルボーンに ハエ取り草的メンズハンターなのであって、支配者としての快感に目覚め男をソソる快感にいまこのとき蘇った普通の地味で平凡な主婦(42才)なるものの生生し くぬめる欲望の光、を表現するのに本人が楚々としてありすぎでは、と思ってしまうわけであります。
こういう配役によって、女性が自分の欲望の実感とともにあれこれ思うものではなく無人島でドキッというありがちな男性側妄想ファンタジーになったみたいな気がして、すごく不満なんですけど、どうですか。違いますか。興行的なものへの配慮でしょうか!不満です!ふ・ま・ん!
無人島で女居ない=ハイパーデフレ急浮上感が、この、言っちゃいますけど、「女としておしまいなのかしら」というどうしようもない苦しさと焦燥感に振って沸いた確変大チャンスだの「こ、こんなおばさん(失礼)に・・・」みたいな切迫とか緊張感汗脂もしかすると屈辱のようなものが最高にエモーショナル・・・であるべ きなのであって、刺激的ドーパミンドロドロしたいんであってこの配役を選んだ人はそこんとこもっとアレしてほしかった。
もっとねえ。
この、そういう判り易いありていの美しさとかじゃなくて、でも魅力的じゃないのじゃなくて
何も起こる前の主人公主婦のような役をいつもやっている女優、いっぱいいるでしょう!!どうしてそこにスポット当てないのよ!!!「そういう人たちもやっぱり魅力的である」って見せて欲しいところ、じゃないの???
若松二朗監督に「あなたほどもんぺの似合う女優は居ない」と映画にさそわれた寺島しのぶとか。
しのぶと言えば、演技の上手な大竹しのぶでもいいよ。田中裕子はどうして人のいいおばさんみたいな役ばかりなのか(蒼穹の昴は最高でした)!?そのあたりジブリアニメは原作小説ファンになんと言われようと貴重である。
昔サントリーオールドのCMで研修医だかなにかになまじ告白される弁当屋の女、あの時の夕日、そしてエモーショナルは忘れがたいものです。
年齢とかよくわかんないけども泉ピン子ならば滑稽さの域までキッチリやってくれるであろうし、昔五社英雄の映画で「男が欲しいんだよ!客とってくれ よォ!」と赤の肌襦袢をずり上げて絶叫した西川峰子(現・仁支川)などほとんど限りなく正解に近い、優等生的解答ではと思う。トラウマですよありゃあ。
藤田朋子も恥じらいみたいなものが想像できてよい。
色々言いはしたけど、余貴美子が完璧でありすぎて、これはどうしても避けられない答えであって、
木村多江でも余貴美子でもどことなく薄倖感を漂わせるけど、前者は完全に罠なんであって、後者のほうがここでは絶対に怨念というか情念というか血圧の高まりが絶対に違うんであって、どっちが優れているとか頑張りの問題でもないとおもいますけど、どっちにしろもっと激しい作品を個人的には見ていたいと思いますがね。

それにしても、近頃はなまじお綺麗なだけでつまんない女優が多すぎて大変不満である(木村多江がそうだとは言ってない)。
そのような有象無象の女優たちにはぜひ田んぼの水で顔洗ったり珍獣ハンターをやったり金魚を齧ったりして(かつて小川真由美がやった)反省してもらいたい!



(2011.11.11 配信)

2011/10/10

第8回 田所さん、あるいは子供の嫌いな人に

先日惜しまれつつ終了したNHK朝の連続テレビ小説「おひさま」に出て来た、田所さん(紺野まひる)が好きだった。


田所さんは、主人公陽子(井上真央)が勤めた食品会社の経理の人だ。
陽子が職場に連れてきた赤ちゃんが泣くとギロリと睨んだりする。
職場じゃさすがに厳しいと思うが、田所さんは最初は子供が嫌いな人なのかなと思った。
それに加えた紺野まひるのぶすっとした表情。一種のぎこちない愛らしさを感じて目を惹かれた。


舞台は、当時1947年。
「子供が嫌いな人というのは、人間として女性として欠陥があるかのように言われ、
随分辛い思いをしたのではないだろうか」と言う事を思った。
現代では少子高齢化にともない、人間が随分利己的になってきたというか、
子供手当を出すくらいなら俺に手当を出せと言う感じで、なんだか世の中の雰囲気全体が子供の事を冷遇するようになってきたような気がする。子供を護るのは親しか居ないんだな、という感が強まってきた。当たり前じゃんと言われそうだ。そういわれれば基本的にはそうだし、仕方がないんだろうけど、何となく複雑であはある。
けれど、田所さんのような人がひっそりと身を隠す?には、適した環境かなと思う。

私自身は、結婚も出産もしていない。子供は嫌いじゃないけどちょっと苦手だ。
生と死の問題について、ひどく単純な深さで立ち会っているような目が恐ろしいからだ。


とは言うものの、全編ぎっちり見通した方々にはお分かりであろう事、
田所さんは子供が嫌いというか、祝言の翌日に夫が出征し帰らぬ人となるという、とてもつらい経験があるのだった。
現実にそのような人に出会えば、胸も痛むだろうけれど、
フィクションとしては、そのような引用符つきの「物語」によって人物像から視聴者へ納得させる理由のある事を、私ならばのぞまない。
深い理由等全く無く子供が好きじゃない人であったり、冷淡な人も居て、そういった人々を含めた「人間のかたち」について共感を求める卑近な感情の一切を排除して、考えるべきではないのか?
しかしながら共感を排除して魅力的なドラマ成立させるのはとても難しい事だ。
朝からちゃぶ台で納豆捏ねながらそんなような事を一人でごちゃごちゃ言っていたんだけど、やっぱり、そんな辛い事の会った田所さんには心が痛むし、陽子が席をはずした時に、そーっと赤ちゃんを覗き込む田所さんが文句無しに可愛いすぎてやばい。ややこしいことはやめにしよう。

個人的には、田所さんに特にこれと言った辛い経験がなくともあのままのキャラクターで、全然構わないのだ。

社会全体や福祉について力なくも考えるとき、私は子供と、子供の嫌いな人について考える。
全ての人の幸せを望むのは、途方もなく難しい事だ。



(2011.10.11 配信)

2011/09/10

第7回 TWO MIX☆

かつて松浦亜弥ちゃんが歌ったのは、

「キュートなのセクシーなのどっちがタイプよ?」って事です。



東京国立博物館2008年「大淋派展」展覧会の図録で、淋派により代々続く風神雷神図屏風を見る。やっぱり俵屋宗達が一番迫力があって尾形光琳の模写したやつはちょっと親しみやすいよねという話を家庭でしていた。

そんで、ほとんど関係はないんだけど人知を超えてるものの強大なフィクションみたいなものを冗談にするのって、面白いのかつまんないのかと言ったら全然わからない。面白いのかもしんない。よくわかんない。尾形光琳がどうとかではまったくなくて。

J・シュトラウスとワーグナーを無理矢理に並べて比べてみると、J・シュトラウスは酒飲めて騒げりゃいいで人生楽しいけどあまりにあっけらかんとしてる。まるでクラスメイトの女の子のように親しみやすいアイドルに刺激が足りなくなって、仏像とか見るグラビアンな魂?=ワーグナーによる抗いがたい神の支配だとかドイツ製の軍用ブーツで頭をぐいぐい踏みにじられているような衝撃、感覚に訴えかける力にはかなわないという感じに似てる。あとなんか面白いこと言おうとしたときに「俺は面白いですよ」みたいな雰囲気を出すと逆に場の雰囲気がしらけちゃって求められるネタのハードルがすごいあがるからしらばっくれた方が良いんじゃないの。しかしそんな話も半裸で微笑むピンナップ・ガールと眼鏡のお堅い社長秘書のどちらが女としてイケてるかというの同じで、まったく好みの問題ですよね。アン・マーグレットみたいにばりっと健康的な方がいいのか、シャーロット・ランプリングみたいにセンシティヴなほの暗さがあるほうがいいのかとか。私が好きなのは若尾文子ですけど。なにがなにやらすいません。





「はじめから結ばれないあなたと私」

なんて歌ったのは見た目そっくりピーナッツよね、

それじゃあまたね!


(2011.911 配信)

2011/08/10

第6回 夢の話

眠ってみる夢と、願う夢とは同じなのだと誰かが言いました。
ユングの言う無意識とか、葵の上に取り憑いてうっかり殺しちゃう六条御息所とか、ヴェルヌの見た夢。
夢見る少女じゃいられない、と歌った相川七瀬ももうお母さん。
平安時代の人は、眠るときにみる夢にでてくる人というのは、眠っている間に体から魂が抜け出て、自分に逢いにきたのだというように考えていたそうです。通い婚?
ありえません。月の出ない夜に迷って、たどり着いたのが私の所だったんだ と 思います よ。
私のiPodは今、フォーレの「夢のあとに」を流しています。エンドレスでループして。誰だかわからないけれど清らかな、技巧のみに頼り切らずたしかに情感豊かな、玉を転がすようなソプラノです。
「夢のあとに」一体どうしているのでしょうか?それが夢であった事、目覚めてしまったことを激しく嘆きつつも寂しさが微妙な優しさを探り出すような、レースのカーテンからの日の光、微笑みで途切れる囁きため息、起きているのに布団から出たくなくてごろごろやたら長い朝寝とかでしょうか。朝寝!貴族ですね。
少なくとも、酔いつぶれて飲み屋に泊まってたとかそういう事じゃなさそうです
あなたにはフォーレよりショパンが似合うと思いますわ。
でも私には愛の夢。


(2011.8.11 配信)

2011/07/10

第5回 「ナナ」とアイドル集団・女神の復讐

19世紀の自然主義の小説・エミール・ゾラの「ナナ」を読むと、
やはり普段テレビで見かけるアイドルのみなさんについても、偲ぶような感情が兆してきます。
「ナナ」の主人公ナナは、貧しく暴力のある家庭を飛び出し、女優を経て高級娼婦になります。

貴族及び富裕層への憎悪と復讐心を胸に、皇帝の侍従を始めあらゆる男たちを虜にします。
彼らの資産を竜巻のように吸い上げ、その社会生活を次々と塵芥に帰してゆきます。
しかし多量の欲望を濾過させた挙げ句の、反動と摩耗のように、ナナは天然痘にかかります。
そして人知れず醜く腐り果て、普仏戦争の足音を聞きながら孤独に死んでゆくのです。

我々から見るナナは、男たちを破滅のどん底にも突き落としてゆく際限のない地獄のようです。

あるいは自らの命を犠牲にして人間の罪を購ったというイエス、この世の衆生のすべてを救うという千手観音についても思い出させるようです。
現実的なところそれだけでは何をも救わないあらゆる神のことを、かえって鏡のように映し出しているかのようにも見えませんか。



そして、つかの間の脚光を浴びては立ち消えてゆくたくさんのアイドルたち
戦友たちの大量の屍を踏みしだき(比喩表現です)、その山の頂上を遥かなる頂を目指すたくさんの少女たちは、たくさんの小さなナナであり、ナナに群がった男たちのように「最終的なナナ」の地位を約束します。(女性の自尊心は多くがそのように複雑なものです)

今日においても欲望という、人参を追いかける駄馬の如く走り続ける資本主義の主軸が(多少の不具合はあれど)基本的には通常運転されている事を思い出します。生産ではなく消費ではなく労働力でもなく、欲望が先立つ資本主義なるもの。

・・・ああそうか。神も、いるでもなくいないでもなく、人が見たいと思ったのか。
関係あるようなないような。


アイドルの皆さんが手段を選ばず人間としての有様を犠牲にして、 神だとか地獄だのの領域たる超アイドルの座に向かって疾走しているのかと思うと、ついファンの皆さんが300枚もCDを買ってしまったり人気投票に必死になったり握手会で何度も並んだりするのも、仕方のない事と思います。南無阿弥陀仏。


私が破産したらAKB48横山由衣様の所為です。
幸せなのでほっといてください。CDに埋もれて死にます。




(2011.7.11 配信)

2011/06/10

第4回 「17才」と昔の男

小雪と松山ケンイチの結婚であるとか、木村佳乃に第一子誕生したであるとか、おめでたいニュースもちらほら聞こえる。
虚実の皮膜の蕩けたゆるい頭では、映画「ALWAYS 3丁目の夕日」を見ている時に
泣きながら身を寄せあう茶川とヒロミを見て「あれっ違う人と結婚したじゃないか」とか思い出して、気が散ってしまう。

何も「映画は虚構である」とかいう意味のないことだとか、作者らと作品を同一視するのは結局下世話なのでさし控えるが
少し逸脱をお許し願って、空想の行き着く先を探してみる。
そうすると、あの映画で誓われた愛や、この物語で語られた永遠というものが
我々の誰もが通り過ぎてゆくようないくつかの恋の一つにすぎぬといった、一抹の寂しさが私には見つかる。


逆に「誰もが通り過ぎてゆく恋」のうちで(?)、それ故に感慨深いものとして、2009年のイギリス映画「17才の肖像」をあげる。


舞台は1960年代のイギリス。ジェニーはパリに憧れる16才。オックスフォードを目指して勉強中だ。
しかし、ある日突然で出会った年上の男性と恋に堕ちてしまい、勉学がおろそかになってしまう。
教師にも見つかって弾劾されるが、少女には「大人の男」の全てが新鮮で刺激的すぎる。
彼がどんな人間であるのかは次々と明らかになるが・・・・
・・・・と、説明してみれば、まあ有り体なロリータ映画のようだ。
邦題もわざとらしいと言えばわざとらしいので、そういう覗き見根性で観たい方はどうぞと思うが(近づきたくはない)、
少女の価値判断の痛ましさというか、結局のところのつまらなさに、沸々と老婆心が沸く。
(相手の男は馬鹿なので、私なら微分積分の方がなんぼかマシと思うが)

原題は"An Education"と言う。辞書で引くと「教育」とある。
といっても、いわゆる所定の学校教育だけの話ではありませんね。実に是非の問いがたい教育だけど、
映画の終盤、ジェニーと女教師との語らいは、傷ついた「愚かなまま年老いた」ジェニーのこれからを臨むしなやかで聡明なものだ。
女教師も、かつてジェニーのような少女だったのかも。

"An Education"が、もう一方の教育に息を吹き込むようなすがすがしさ、それでもせめてものといった希望を残して、映画は終る。


(2011..11 配信)

2011/05/17

第3回「ベニスに死す」より、我々の愛するタッジオ

学生の頃に買ったVHSで映画「ベニスに死す」を再度試聴した。



描く者と描かれる者、恋する者と恋されるものとの間には絶対的な差別が存在する。絶対的な差異が。
しかしそれは、なんと狂おしく切ない愛の差別であろうか。
ヴェネツィアの運河をゆっくりと進む船と、我々を物語に導くマーラーの官能的な楽曲。静養先で画家は、ホテルで見かけた美少年の虜になり、彼を捜して夜な夜な街を彷徨う。やがて町には疫病が蔓延するが脱出する事もせず、思慕と病に蝕まれ、腐るように死んでゆく・・・。



監督ヴィスコンティがヨーロッパ中を探しまわってやっと見つけたという少年タッジオ---ビョルン・アンドレセンの、闇の中から煌煌と浮かび上がるような、怜悧で妖しい美しさ。
劇中、少年は一言も発さない。ただ朽ちゆく老作曲家を一瞥し、身を翻してどこかに消える。
かように美しく霊威ある 「描かれるべき存在」は、どうして常に我々を見捨て、我々のもとから去ってゆこうとするのだろうか。



例えば室生犀星の小説「或る少女の死まで」では、汚れを知らない少女は人間達を取り残し、この世界から飛び去ってゆく。小川洋子の最高傑作「ホテルアイリス」-異議は認めない-で主人公の少女は、死んだ恋人の翻訳家を忘れられない。残りの一生を全て余生として過ごすほどに・・・。
生きるにしろ死に行くにしろ、恋される存在は未来に臨まれ、過去は美しい結晶になる。
一方で、恋する愚かな我々はいつも取り残されるのだ。だから、なにかしら創作というものは苦しい。
暗くて、じめじめとして、さらには極寒。
聞くところによると、ベニスの冬もそのようなものであるらしい。
訪れるなら、作曲家のように夏が良いとのこと。
これからは観光のシーズンですね。





(2011.5.11 配信)

2011/04/13

第2回 「花のひと枝、だれかの話」

 

















いつにもましてひどく時間の感覚までもが狂ってしまったように感じるが、
既に四月半ば。北上する桜前線が東京をも徐々に徐々に春らしく染めつつある。

暖かな萌しの、いずれ北にも届くことを思う。


日本の地に遍く知れるが、我々は祖先から桜に親しみ、また歌に歌ってきた。


西行が歌った吉野の桜や、小野小町が垣間見る人の心の変化・・・など、桜の歌は限りなくたくさんある。
しかし今年、ことさら私に思い出されたのは、次の歌だ。



この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の 言ぞ隠れる おほろかにすな


時は万葉。
愛する人に手渡したのであろう、ひと枝の桜。
ーーーこのひと枝に、自分の思いの全てを託してあるから、どうかおろそかにしないで欲しい。
そんな意味が添えられている。


個人的主観かもしれないが、「言ぞ隠れる」の部分には、単なる恋愛ゲームにおけるレトリック以上の切実さを感じる。
なんとなく、あえて言わない駆け引きよりは、愚直な感じだ。
 語らいの許されぬ愛であったのか。 

それともあまりに気持ちがつのって、語りきれぬのか。
いずれにせよ、他愛もない語らいではあるけれど。
作者の出自や閲歴、人物像も時の中で風化して久しい。
人物紹介を旨としたこの欄においては、不適当な話やも知れぬ。
しかし今こそ、名も知れぬ人の、生き生きと生きた事、あるいは今も生きる事を思いたい。


語りきれない万感を、思えば少しの言葉に託す苦悩は、誰もが思い当たる事だろう。
 折しも昨日4月10日は、知事選・県議選であった。
・・・「おほろかにすな」というのは、それこそ誰もが投じた思い、ではなかろうか。


いにしえの書をひも解くと、悠久の遙か彼方から春風が、今に向けて吹き抜けてくるような気がする。









(2011.4.11 配信)

2011/03/10

第1回 「デカワンコ」より、多部未華子の話

日本テレビ土曜ドラマ枠で放送中の「デカワンコ」が面白いので、親類一同視聴中である。
 


ご存知でなければ教えて差し上げたい。主演の多部未華子ちゃんが可愛い。
可愛いと言っても、ありていの媚や平凡な化粧臭い算段とは、完全に距離をおいているのだ。
河原で拾って石を見ると、多部未華子を思い出す。
お気づきであろうか。
石は、ただの石ではない。
石はかつて火山から苛烈に吹き荒れる溶岩であった。
地に流れて冷えて固まり、時間をかけて堆積し、怒りに任せて叩き割れ、そうして石は、今見るような石になった。
時に皮膚をも切り裂く硬度を持つ、なまなましい歴史を持ちつつも素直で愚直な凶器。
----石はかつて、地球であった。
地球の熱き血潮であった。
多部未華子の猛然たるプリミティヴな質感は、いうなればそのようなものだと思う。





「デカワンコ」では、犬並みの嗅覚で時間を次々に解決する新人女刑事を演じる。
「ニオいます!」と一声叫び、ためらいもなく顔面歪め、鼻を吊り上げクンクンと匂いをかぐ姿は、下手な犬より犬らしい(?)。
テレビのスイッチを切ったあと、私はしばしば「多部未華子という人は、実はわけあって人の姿をしている犬なのだ。」という、神話的な空想から離れられなくなる。
多部未華子が本当に犬(イヌ科イヌ族)でありますよう、お祈りするばかりです。
要約しますと、つまりこのドラマがとっても今期のおすすめであります。





(追記:近年、多部未華子はおとなの女性としての歩みを進め、すこしばかし分かりやすいお化粧をする場面が増えた。しかし素敵な清らかさは当然変わらず、柔和な可愛らしさも増した。)


デカワンコ公式ウェブサイト 





 (2011.3.11 配信)