2012/12/11

第二十二回『燃えよタイトル』



命名が不得意なので、名称未設定4.txt とかのファイル名がどしどし増える。
タイトルが苦手。特に「りんごのある静物」と言われれば、嘘だ!なんの罠だ!と耳と尻尾がとんがる次第。
本当にりんご等だけなのか、エデンから白雪姫につらなる罪の系譜か、
青森のりんご農家の北風に震えるほっぺか、てゆーか素朴さを装った皮肉?とか、喧嘩になりそう。
no more 説明。
形容詞とかも汚らわしい生活のカスであり、比喩は本文からの逸脱である。
かような日常の穢らわしい夾雑物から、言葉を解放して行かなければならない…のような事を割と中学の時まじに考えていた。だからアンチタイトル。
抽象なのか具象なのか。んなもんひとつの属性であって、優劣ではないことに気づくのに思春期の大半を空費した。その間「りんごのある静物」系の作品を見つめるゆとりというものはなかった。

とにかくタイトルつって、よけいな事言うの嫌じゃん。
でも世の中には良いとかうまいタイトルがあって、期待を引っ張ったり、雰囲気にうまく同調したり。忘れた頃に後ろからぶすっと刺すようなタイトルもいい。
むしろタイトルによって、積極的に内容を切り変えてゆくのもよろしい。
言うまでもないけど、言葉は必ずしも正確な状態を説明する必要はないよね。どこにもりんごがないってのもよくある話だけど。
否定も肯定もせず、無意識の最果てまでを汲みうるきっかけのような、言葉の有り様が好きだ。
りんごのある静物だとか花の絵だのが、特に深い理由もなく応接間にかけられているのと同じに。



(2012.12.11 配信)

第二十二回『燃えよタイトル』




命名が不得意なので、名称未設定4.txt とかのファイル名がどしどし増える。
タイトル苦手。特に「りんごのある静物」と言われれば、嘘だ!なんの罠だ!と耳と尻尾がとがる。
本当にりんごはただのりんごなのか、エデンよりつらなる罪の系譜か、
青森のりんご農家の震えるほっぺか。素朴さを装った皮肉のつもり?喧嘩になりそう。
no more 説明。形容詞なども汚らわしい生活のカスであり、比喩は本文からの逸脱である。
そんな日常の穢らわしい夾雑物から、言葉を解放して行かなければならない、純粋に…のような事を中学の時まじに考えていた。はずかちい。
抽象なのか具象なのか。んなもんひとつの属性であって、優劣ではないのに気づくまで思春期の大半を空費した。その間「りんごのある静物」的なものを見つめるゆとりなどはなかった。






とにかくタイトルつって、よけいな事言うの嫌じゃん。
でも世の中には良いとかうまいタイトルがあって、期待を引っ張ったり、雰囲気にうまく同調したり。忘れた頃に後ろからぶすっと刺すようなタイトルもいい。
むしろタイトルによって、積極的に内容を切り変えてゆくのもよろしい。
言うまでもないけど、言葉は必ずしも正確な状態を説明する必要はないよね。どこにもりんごがないってのもよくある話だけど。
否定も肯定もせず、無意識の最果てまでを汲みうるきっかけのような、言葉の有り様が好きだ。
りんごのある静物だの花の絵だのが、特に深い理由もなく応接間にかけられているのと同じに。







(2012.12.11 配信)

2012/11/11

第二十一回『ああ「薔薇色の」ミシマユキオ』

仮面の告白はなにやら親戚の女が登場してから読むのをやめました、とかそういう話ではない。



三島由紀夫らしからぬ実直な青春物語、としばしば表現されはする。が、「潮騒」も代表作の一つには違いない。一言で言えば離島の漁村の恋物語ってことになる。
三島先生の鍛え上げた肉体からむわっと汗が立ち上ってくるのを眼前で見てしまったかのようで、これも「らしい」のだろうと思う。緻密に描写される作品世界は、まるでハイビジョン放送のように解像度高く時に荒々しく、見知らぬ漁村と三島先生の汗と毛穴を見せるんである。 
惹かれあう新治と初枝はあらゆる近代的な病から漂白されており、原始的な神話の世界にとどまりながら、人とかかわりあいながら強く、自然に生きていこうとする。その様がとても素朴で、すがすがしく気高い。むさくるしいけど。文化とか文明の成長?と人間の本質的な成長って違うかなぁとか、なんかそういう感じだと思うんですけど。 説明終わり。



しかしそれにしても、初枝の裸体に対する「薔薇色の」という表現があったけれど、奇妙に都会的な猥雑さがある。過剰に文化的である。
歌島に薔薇は咲いているのだろうか?咲いていたとしても、あるべきふさわしい原生の薔薇は、「薔薇色の」という表現によって想像されるものだろうか?
もちろん赤とか黄色とか、色相環上の話をしているのではない。「薔薇色の」の、文化的背景とメンタリティを問うているのである。
主人公による小説ではなくて語り手の小説、その語り手とはっきりと目が合ってしまったというか、なんていうか、ストリップ小屋に行ったら舞台を挟んで反対側に陰の支配人ミシマがいて、その目がギラギラと輝いているのを見てしまい、ここがストリップ小屋だと気づいてしまったよーな気がしないかどーかどーなんだ。


断っておくが、ゴーギャンが描いたタヒチの話をしても、どちらの作品がおとしめられるとも思わない。それでもここでの「薔薇色の」という言葉は、存在感がある。別に男色の話ではなくとも。




(2012.11.11 配信)

2012/10/11

第二十回「神様お前様どっちもスタンダード」


腹上死という言葉を目にすると、登山で死んだ人をイメージしてしまう。 
なぜか。 

なんというかこういう事言うの凄い迷うんだけど、しばらく前から男の人って大変よね、と言う気持ちが無いでもないのをわざわざ宣言。何が大変って言うの、女の人は山の神様とか海の神様のように図々しくて尊大である意味で現実的な存在で、 対して男の人は、そういう神々のその理不尽な怒りとか、あるいは季節の祭事に応じて捧げられる、生贄の羊とか娘さん(!)らしいといえばらしくあり。
生贄に応じて災害のない平和(?)とか、作物の豊穣(妊娠出産)とかがもたらされるよ、みたいな。しかし神が供物の受け取りを拒否することも度々色々にありつつ説明を避ける。 
一方で、生贄の羊の生きてる暖かさとか生命力を深く実感したり、自然の漠々たる容赦のなさとかのれんに腕押しな感じとかそれっぽいといえばまあそう。
そういう物語が、実は私達一人一人の中に眠っているのではないか、密かに遺伝子が語り続ける伝承とかのそういう妄想そうすると、ヤマトタケルが荒れ狂う海の中にオトタチバナヒメを失う航海のエビソードも性的経験によって精神的なものを失った(かのような)少年のビルディングスロマン的なセンチメンタルを象徴しているのかもと思うと胃の底がキテレツ痙攣。
神話の総意予想だから!私の意見じゃないから!
物事の観測が根本的に間違っているよね。東京港から見れば隅田川は北、隅田川から見れば東京港は南、「生贄」を軸にしてオセロひっくり返るというただそれだけの話を、ただ生き物の都合上の構造でしかない事にまるで深い意味があるかのように「●●を象徴している」とか物語をでっち上げたりするのは、竹内久美子本脳内で参照しながら「男(女)・・・とかってのは」的にクダ巻いてるノリと変わらんようになってしまうので泣きながらやつあたり「お前とカマキリの雄が何じゃ!オラ」的な手元のグラスをメリメリと割りつつ!!!
お互い人間でありたいじゃないの…たとえインテリ気取りの俗物だったとしても…せめて人間でありたい…
私たちカマキリでも神様でもない、比喩にイメージ外注せずによ…



(2012.10.11 配信)

2012/09/11

第十九回「秋だ!悪魔の赤ちゃんがやってくる!SP」


また友達とか従姉妹とかが、妊娠とか出産とかを繰り返している。まるで鉄砲伝来のごとしである。
しかしあの冷静にですね、冷静に考えるんだよ、膨らむとか信じられん、寄生虫じゃん?人体の常識を超えてる、9ヶ月ガンガン養分吸って膨らむとか超ヤバくない?
都市伝説、大動脈瘤とか悪性の腫瘍とかそんなんじゃないの、だって近所の子供がおなか減ったとか言って近づいてきても自分の腹の肉切らないじゃん。そんな事したらヤバいじゃん食べるわけないし。私はだまされないぞ!!!
悪魔に違いない!!!!!
世の中の夫婦全員、悪魔を呼び出すオカルト集団として私の中に刻みこまれてゆく。
霊媒のように横たわる人々には悪魔の角。血まみれの十字架と聖体パン。黒ミサの始まりである。
だからその辺歩いて「悪魔よ!立ち去れ」とか叫んで人の顔面に十字架とか叩き付けたい気持ちでパンパンに肥大し、
このどうしようもなさを落ち着けようとして、ロマン・ポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」を借りてきて視聴した。
したら親切な隣人は実は悪魔のしもべであり、毒草と呪いの力で赤ちゃんを奪おうとしていた!私の感情は悪化した。
妊婦なのにがりがりに痩せて行くミア・ファロー(ローズマリー)
絶えずの激痛、悪魔の隣人、悪魔の産科医、変な薬、話を聞かない夫、話が通じない夫、薄い壁、隣人の過干渉、友人の変死、みんながみんな私をだまして幻覚幻聴、夫、夫、おっとおとおとおとととととととt…とにかく、全然悪魔っつってんのに話を聞かないで小馬鹿にしててばかりなので、一緒にキーーーッ!!!となって、しかしローズマリーは体力が落ちてフラフラなので、私一人で怒っていた。
こういう風に、微妙な時期に相手の話聞かないでいるとどうたら、みたいな話「あさイチ」の産後クライシス特集で見た。正直よくわかんないけど。
あと、いわゆる本当の「妄想のある人」の妄想も否定してはいけないらしい。どうなっているの…?
すべては現実なのか?それともローズマリーの妄想なのか…?何がどうなってしまったのか…?
世界の奥さんとは妄想なのか…?
いずれにしろもうここんちの夫婦に平穏はないわけで、このあたり近所の主婦を集めておかし食べながら視聴したいようなしたくないようなしたくないです。
しかし、従姉妹の家に行ったら普通に赤ちゃん(天使。NOT悪魔)にほだされて笑顔で帰宅。
私の戦いは終わった……。




(2012.9.11 配信)

2012/08/11

第十八回「かぐや姫と自我パワーゲーム」


竹林業のおじいさんが、いつものように竹をざっくりと切ると、中から小さな女の子が出てくる。 
自分ら夫婦の子供として大切に育てる。
美しく成長したので、どしどしと求婚者あるしおじいさんおばあさんも「そのようなものだからそのようになさい」というし
しかし本人は「よくわかんない人と結婚して浮気されるのやだ」とか言って、何人かいたのを色々無茶言って拒絶。 
で、 天皇とも文通してたけど、天皇は悲しんで思い出の長寿薬を富士山頂で焼く。「竹取物語」はこんな感じだった。 

竹は増殖する。
みちみちみちみち増殖しくさって他の植物を根元から圧迫し上から日光を遮り駆逐する。竹林というのは全部つながっていて、あれは全部同じ竹である。
分裂・崩壊とを隣り合わせにした自己というゲシュタルト、無意識化で肥大して行く自我を象徴しているのだと思う。
いいとか悪いとかでなくそういう人が誰かと一緒に共同生活(通婚にしろ)をする事は難しいのかもしれないし、
強烈な自我と主体性を持っていると 「人に媚びて得するとかおかしいんじゃねえの!?人として!」
みたいなところにたどりつき、「てめーらもそれでいいのかよ」とむしろ美×金というパワーゲームという罠でミーハーブランド好き女スイーツ(笑)を演じてみるも彼氏らギラギラとその話に乗ってくるので姫わ。。。ょけぃ悲しくなった。。。・゜・(ノД`;)・゜・
みたいな?
惚れるより慣れるんかも知れないけど、そういう事最初から言わない。
現代がどうなのかはよくしらんが、よくわからない人と必要あって結婚などするシーンは少ないと思う

しかしかぐや姫は特に代わりなどとして自営業継いで「うちもお爺ンと竹やるねん」とか、二代目女社長細腕繁忙期とかにはならずに、異世界に帰郷してしまうのは孟宗竹妄想じみてるし、日本国民が月に移住してじゃんじゃん少子化してるんかもしれないがそんな事を言っても誰も得しない話になるのでそれはやめる。
この物語には、少女のほかにはおばあさんしか居ない。その中間の成熟した女性像とかのロールモデルは現れない。
生まれたと思ったらすぐ死ぬのが人生であり光陰矢の如し、とか思ったら月の人は成長が早い割に寿命が長いというほぼ一生涯美少女保証でぎえー!
一体何しにきたの・・・私らに何を伝えにきたの・・・

強烈な自我が強烈な善悪のアンテナになり、「よく知らない人とでも結婚するものなのだ」とか、「~するものなのだ」「そういうものなのよ」
みたいな事に、自分を反発させ続ける。そういう「竹生まれ」みたいな人はたまにいる。
そのような人を「付き合いにくい人」「やりづらい人」のようなある種の危うさも感じ取りつつ、それを無情の価値あるものとして描いたのが
「竹取物語」なのではないか。
そういうわけで、選択肢の一つとしての同性婚くらい認めたらどーなの、という、そういう話にも飛びそうですが、この辺りで。


(2012.8.11 配信)

2012/07/11

第一七回「ウケ狙い足下見えたりビレバンよ!!!!at高円寺」


何年か前のこと、あなたは覚えているだろうか。高円寺に、ガレッジダンガードの店舗が現れた日の事を。
我々のうち、誰もが叫び、そして泣いた。
おお、高円寺は死んだ!魂は今、鳥のように飛去ったと!
高円寺はある意味最も高円寺らしく、一方で全く高円寺らしからぬものに侵略を受けて敗北した。これをサブカルという。

はぁ?サブカル?言いとうないわそんなもん。

集団から外れて攻撃される事を恐れながら、それでも個性を発揮したい。自分の特別さを愛撫したい。
けど手間かけたくない。適当に会話をこなしたい。
そういう甘ったれどもの店。それがガレッジセーラー服である。それが高円寺にできた。
今まで高円寺において、個性的かどうかという事が問題になった事があるのだろうか?
自分の好みに誰かの許可が必要な町だったろうか???
良識ある高円寺人の痛みと屈辱がわかるかうわあああああ!!!!!!!!!!!!!!

地方にボコボコとタケノコのように生えまくる大型ショッピングセンター、やたら駅前にできるシアトル系カフェ。そしてビレバン。
どれもこれも、食べやすいように粉々にされた、離乳食のようなものである。情報を噛み砕く力を劣らせる。出会い系サイトも即に情交である。浅ましい。何もない。1000000個のパーツから自分だけのアバターをお選びいただけるその種類はなんと!!!とか、大型ショッピングセンターにはそれなりの品がそれなりにあり、ヴァッシュザスタンピードには、大学の友達に話しても恥ずかしくない趣味として許可された、おしゃれでちょっと知的で曰く「個性的な」品々が去勢された獣の標本のごとく陳列されている。
エロ本?とか。一見トンチキな雑貨とか。

かつて、パンクというれっきとした、社会への意思表示活動があった。
しかしそれは、いつしか反抗的気分だけ味わうものとして形骸化していった。残ったのは幼児並みの欲求と、パンク・ファッションだけである。
見せかけのポリティクスで女をコマす似非闘士、そしてビレッジバンガード。
全部同じ事である。仏造って魂入れず。てめえ!安全ピンつけてりゃそれがパンクか!!!

そもそもガンバレアスリートさえなければ、私の貯金がもう少しはかどるのだ(ダレモガビンボーダ)!!!
誰がカレッジモルモットなどに屈するものか!!!たまたま用事があるから行くのだ!!!!
買い物はするが、お前など好きでも何でもないのだ!!!!!
本当の愛は、許可にすら汚されないのだよ。ふっふっふっふ。

破れたり!!!!ヴ ィ レ ッ ジ ヴ ァ ン ガ ー ド!!!



(2011.7.11 配信)

2012/06/11

第十六回「男子に生まれたキミを包み込むメスブタの巣」




センチメンタルバスの「だんしじょし」って曲が好きだった。
でも例にもれず恥ずかしいから「○○女子」とか言わないためにどうすればいいのかを知りたい。

はるか昔、インターネット黎明期。ホムペのプロフ(死語?)に「いちおー女^^;」とか「XX」とか「♀」とかわざわざ書いてみる風潮があった。前略プロフィールとかの場所である。照れがちな、ズバリの表現を避けると同時にユーモアセンスをアピールする目的はあったものの、かえって照れる恥ずかしさ、レンタルサーバー個人サイトadmin的な恥ずかしさからは逃れることが出来なかった。
だからって直球「女」と言ってみると、極めて大奥嫁と姑給湯室二時間ドラマワイドショーな感性におえっぷ食傷気味だし、「オンナ」とか言ってみると、あぁあなんという80's週刊誌クオリティ、古いやだ生々しいピンク、そのような紆余曲折を経て「女子」なる表現に我々はようやくたどり着いたのかもしれないのだった。
しかしだからこそ「女子会」とか「○○女子」という言葉を聞くたびに、そういう遥か悠久の歴史に思いをはせるあまり万感極まって吐瀉物をそこらに滾らせそうになるんだった。ああこじらせた。こじらせたんだよ。自認するとああ恥ずかしい、消臭剤かけたら余計にくせーよ牛乳拭いた雑巾腐ったよ的にドミノ倒しに被害が拡大しているのがわからんのか!!!!!!!!!!

あまりにつらい。私のようなメスブタは、巣に帰りたい。
しかし、メスブタという卑下も大概である。おんなしである。

大体「男子」「女子」っていい年こいた大人が「マスコミの言葉に踊らされてみました(笑)」という大義名分?のもとに自認をこじらせて男子女子、男子女子ですよ。あああああ高校三年生僕ら離れ離れになったというのになんなのよ、局所的な発毛に象徴される思春期の心の痒さ、学級委員の権力への意思、剣道着の汗臭さ、リア充非モテのスクールカースト、好きな人に鼻かんだティッシュ見られて泣いたり女子(まさに)だけ体育館で何のビデオ見てたの?って聞かれて「ランボー3。怒りのアフガン」とか虚ろな瞳で嘘ついたあの罪悪、小中高という恥辱の強制収容所、そのようなもどかしさ、恥ずかしさに立ち返りたいの?馬鹿なの?死ぬの?
第三次性徴期(更年期)を前にして、我々は過ちを繰り返そうとしてるの!!!????
いずれにせよ人々の思想の奔流を分ける小石、あるいはただ流されている無数の小石のひとつとして、「男子・女子」もいつかなにかしら道しるべとして振り返ることが出来るのだろう。恥ずかしい思い出そのもののように。と、思うと、「女子会やるよっ☆」とか言われると「…メスブタの巣…メスブタ集会…」と私はひとりごち、地獄の苦しみにのた打ち回るしかないのであります。



(2012.6.11 配信)

2012/05/11

第十五回「ムーミンママについて」

ムーミンの日本版アニメ第一話「ムーミン谷の春」を見た。


飛行おにの呪われた帽子をかぶってしまったムーミンが、小汚い妖怪みたいに変身してしまって
必死に「俺はムーミンだ」って言うんだけど、みんな「お前は誰だ」という感じで信じてもらえないんよね。
スナフキンとかスニフとかフローレンとかミイとかパパすらも、もう誰にもわからない。
そこにムーミンのママが来て、ムーミンはママに「僕だよムーミンだよ!」って泣きながら言って、
ママはそれをいいから落ち着きなさい、と言って、ムーミン(妖怪)を優しく撫でて、
ああ、あなたはムーミンよね、ってママだけ理解して、それでムーミンは呪いが解けて元に戻るんでした。



こういう表現はよくある。「妖怪になってしまったムーミンを見破れなかったパパ」がやばいのでは?とか、「超常現象によって外見の変化した息子を本人だと見破る」という、エスパー能力を見せなければ母親の愛情というものは"世間では"認められないのかとおもうと、可哀想なのではと思ったり。
そして、そのようにどこまでも親に見破られてしまうということはムーミンにとって体制的なことではないのか?しばらくほっといた方がいいのではないか?
ただムーミンは別に好きで妖怪になったわけではないので、みんなに信じてもらえなくて殴られて泣いて居るので、冤罪事件の被疑者になってしまったとか、かもしれない。そういうときはたぶん本当に孤独で、信じてくれる人の存在が力になるんだろう。私が言うような過剰な意味はそこにないのかもしれない。



他に「ムーミンママとバンパイア」のエピソードでは、ムーミンパパは恐ろしいバンパイアをぶっ倒そうとするんだけどムーミンママはバンパイア(コウモリ)をお菓子のカンに入れて飼おうとするんだよね。対象を思いのまま矮小化する庇護欲の恐ろしさを持っている。
と同時に、ああそうか、「お母さん」なんだけどそれだけじゃなくて、ある点で幼児と全く変わらず勝手に自分の世界を作っている部分があるのかもしれない、と思うと気が休まる。ムーミン谷ってなんか偏屈で勝手で孤独な連中のるつぼなんだろうけど。まったく、だれもが勝手に生きている事を想像した方がよっぽど心が休まるよ。ケッ。



創作物語において神の視点を有する作者や、傾倒してゆく読者とがどのような欲望を持っているのか、そしてそれは正当なのか不当なのか、正当な判断があるとすればそれはどのようなものか、と言った吟味にしか関心が無くなってしまった。
トーベ・ヤンソンやアニメのスタッフに対する批判というよりかは「ムーミンママがムーミンをもし見破れなくたってムーミンママはムーミンのママだろうがどうか。いや、別にばれてもいいけど」ということは考えてもいいのではないかと言う話。


(2012.5.11 配信)

2012/04/14

第十四回「舞乙-HiMEはトモエちゃん腹黒可愛い!」

以前よりも随分、アニメを見ていると公言しても恥ずかしくない世の中になってきたように思います。
舞乙-HiMEの話をします。2006年のサンライズ作品です。
萌えアニメにあらずな燃えアニメ。
小娘トモエちゃんのサイドストーリーが大変すばらしいのだ。
 


 成績優秀トモエは学園の“お姉さま”シズルに憧れのような、支配欲のような感情を抱いている。
 お姉さまには媚びへつらい、可愛がられる同級生は軒並み制裁。
 やがて戦争が起こり、シズルは投獄される。トモエは敵国に寝返り、シズルへの待遇を破格のものにさせる。
 二人は「密室で赤ちゃんごっこ」(筆者には説明不能)という倒錯的な遊びに傾倒して行くのだが…
 


トモエさんいくら利発だとしても所詮14才なので。なんというか大人からすれば、結局たかが知れてて犬っころみたいなもんなのだった。
投獄中の暇つぶしの道具として利用されているわけです。よ。利用して、手に入れるつもりだったのに。
シズルさんって、別にトモエを愛しているわけではない。アニメ絵で表現可能なことが驚くほど、まったく感情のない瞳で口付けをしている。
相当悪いやつなんじゃないか?えげつないやつなんじゃないか?
教育者でもなんでもないのだが、そうでなくても悪い、悪いやつだ。
ともかく、聡明で早熟そうだが実はものすごく精神的に幼い子が「幼さがなんの言い訳にもならない」という世界に自発的に踏み入れちゃったわけで。
そしたら相手がケダモノだったわけで・・・。うーん。
一方でシリーズ前作において「自分を愛さないなら相手を殺す」というエピソードを経験したシズルさんは、トモエとよく似ているのだ。
だからこそ互いにまるで、利用しあうような共犯関係として、成立ができたのかもしれない。
金井克子の歌みたいだよな・・・。
 


そんなじりじりとした感情(みたいなもん)を指定話数だばだばグツグツつめてあり、ストーリーの話は野暮なのです。えへっ。
にしてもわれわれの生きている世界に何の関係もないフィクションに有用性なんてないが、瑣末的としかいいようのない「現実味」や表面的な「善悪」もしかり。
ミステリにおいて「“現実的な”トリックの可不可」を重視するよりも、その制限を取り払ったほうがよりミステリとしての負荷がかかるように、
シズルさんのような人物は“現実的”には当然注意されるべき存在だが、彼女の行動も舞乙(のような精神的な作品)においては当然「ただのえげつなさ」で終わらせるべきものではないのだ。
そういう思索こそ作品なるもののの一役割だと思うが、件の表現規制ではどうなってしまうのだろうと思う。

ちなみに最終回で死んだと思われていたトモエちゃんは次シリーズ
大統領候補に取り入ったり「チンケな悪役」っぷりを元気につづけており、一部のファンたちを安堵させました。



舞乙-HiME公式HP
http://www.my-zhime.net/tv/index.html


 

(2012.4.11 配信)

2012/01/20

第11回「我々の先生たち、ひとまず池上彰」


お正月は他に見たいものがないので、テレビ東京で池上彰の番組を見ていた。
昨年の夏に録画した信州大学での特別講義とのことで、いわゆるひな壇芸人的なものはおらず、彼らのオーバーリアクションを見ずにすんだので、かなり快適な正月を過ごした。

「へえ~!」「なるほどぉ~!」という大げさな感嘆を見るにつけ、その度に私は、「せっかくデジタルデータ放送?なんだからあれらを消せるボタンはないのか」とキリキリ歯ぎしりをしていたのだ。歯がすり減らずにすんだのはありがたい事である。
もちろん明るく楽しいバラエティー番組としては、愉快なクラスメイトの皆さんがいたほうがいいに決まっているのだが、それにしても傷つく。
自分だけ優秀ないい子になり、先生に褒められたい!という幼少期の誰それや、あるいは自分のことを見せつけられたみたいで傷つく。そのような承認欲求に対し強烈な批判精神をもつのが言うまでもなく不良の一派であり、少なくとも義務教育終了まで長い事たもとを分つ。そして反発の対象だったり尻尾を振る対象だったり、全く心に残らない可能性もあるけど、それぞれ何かしら道しるべ程度には、先生なるものの姿が心に残るのではないかと思う。
で、学生時代全く勉強というのをしなかったあなたも、今では学生の頃のように勉強をしなくなってしまったあなたにも、あるいはなんにせよ学習と思索の心をなおも忘れずただ自分の師匠から離れて過ごしているあなたにも、「ああ、先生どうしているかな。」と思わせて、郷愁とともに、背筋が伸びたり縮んだり寒くなったりするんじゃないか。その、池上先生を見て。
森昌子「せんせい」が大音量で鳴り響く事はなはだしい。
池上氏は、そのような意味でも人々の良心の指標として機能しうるのかな、と思った。




(2012.1.11 配信)