2011/07/10

第5回 「ナナ」とアイドル集団・女神の復讐

19世紀の自然主義の小説・エミール・ゾラの「ナナ」を読むと、
やはり普段テレビで見かけるアイドルのみなさんについても、偲ぶような感情が兆してきます。
「ナナ」の主人公ナナは、貧しく暴力のある家庭を飛び出し、女優を経て高級娼婦になります。

貴族及び富裕層への憎悪と復讐心を胸に、皇帝の侍従を始めあらゆる男たちを虜にします。
彼らの資産を竜巻のように吸い上げ、その社会生活を次々と塵芥に帰してゆきます。
しかし多量の欲望を濾過させた挙げ句の、反動と摩耗のように、ナナは天然痘にかかります。
そして人知れず醜く腐り果て、普仏戦争の足音を聞きながら孤独に死んでゆくのです。

我々から見るナナは、男たちを破滅のどん底にも突き落としてゆく際限のない地獄のようです。

あるいは自らの命を犠牲にして人間の罪を購ったというイエス、この世の衆生のすべてを救うという千手観音についても思い出させるようです。
現実的なところそれだけでは何をも救わないあらゆる神のことを、かえって鏡のように映し出しているかのようにも見えませんか。



そして、つかの間の脚光を浴びては立ち消えてゆくたくさんのアイドルたち
戦友たちの大量の屍を踏みしだき(比喩表現です)、その山の頂上を遥かなる頂を目指すたくさんの少女たちは、たくさんの小さなナナであり、ナナに群がった男たちのように「最終的なナナ」の地位を約束します。(女性の自尊心は多くがそのように複雑なものです)

今日においても欲望という、人参を追いかける駄馬の如く走り続ける資本主義の主軸が(多少の不具合はあれど)基本的には通常運転されている事を思い出します。生産ではなく消費ではなく労働力でもなく、欲望が先立つ資本主義なるもの。

・・・ああそうか。神も、いるでもなくいないでもなく、人が見たいと思ったのか。
関係あるようなないような。


アイドルの皆さんが手段を選ばず人間としての有様を犠牲にして、 神だとか地獄だのの領域たる超アイドルの座に向かって疾走しているのかと思うと、ついファンの皆さんが300枚もCDを買ってしまったり人気投票に必死になったり握手会で何度も並んだりするのも、仕方のない事と思います。南無阿弥陀仏。


私が破産したらAKB48横山由衣様の所為です。
幸せなのでほっといてください。CDに埋もれて死にます。




(2011.7.11 配信)