2012/05/11

第十五回「ムーミンママについて」

ムーミンの日本版アニメ第一話「ムーミン谷の春」を見た。


飛行おにの呪われた帽子をかぶってしまったムーミンが、小汚い妖怪みたいに変身してしまって
必死に「俺はムーミンだ」って言うんだけど、みんな「お前は誰だ」という感じで信じてもらえないんよね。
スナフキンとかスニフとかフローレンとかミイとかパパすらも、もう誰にもわからない。
そこにムーミンのママが来て、ムーミンはママに「僕だよムーミンだよ!」って泣きながら言って、
ママはそれをいいから落ち着きなさい、と言って、ムーミン(妖怪)を優しく撫でて、
ああ、あなたはムーミンよね、ってママだけ理解して、それでムーミンは呪いが解けて元に戻るんでした。



こういう表現はよくある。「妖怪になってしまったムーミンを見破れなかったパパ」がやばいのでは?とか、「超常現象によって外見の変化した息子を本人だと見破る」という、エスパー能力を見せなければ母親の愛情というものは"世間では"認められないのかとおもうと、可哀想なのではと思ったり。
そして、そのようにどこまでも親に見破られてしまうということはムーミンにとって体制的なことではないのか?しばらくほっといた方がいいのではないか?
ただムーミンは別に好きで妖怪になったわけではないので、みんなに信じてもらえなくて殴られて泣いて居るので、冤罪事件の被疑者になってしまったとか、かもしれない。そういうときはたぶん本当に孤独で、信じてくれる人の存在が力になるんだろう。私が言うような過剰な意味はそこにないのかもしれない。



他に「ムーミンママとバンパイア」のエピソードでは、ムーミンパパは恐ろしいバンパイアをぶっ倒そうとするんだけどムーミンママはバンパイア(コウモリ)をお菓子のカンに入れて飼おうとするんだよね。対象を思いのまま矮小化する庇護欲の恐ろしさを持っている。
と同時に、ああそうか、「お母さん」なんだけどそれだけじゃなくて、ある点で幼児と全く変わらず勝手に自分の世界を作っている部分があるのかもしれない、と思うと気が休まる。ムーミン谷ってなんか偏屈で勝手で孤独な連中のるつぼなんだろうけど。まったく、だれもが勝手に生きている事を想像した方がよっぽど心が休まるよ。ケッ。



創作物語において神の視点を有する作者や、傾倒してゆく読者とがどのような欲望を持っているのか、そしてそれは正当なのか不当なのか、正当な判断があるとすればそれはどのようなものか、と言った吟味にしか関心が無くなってしまった。
トーベ・ヤンソンやアニメのスタッフに対する批判というよりかは「ムーミンママがムーミンをもし見破れなくたってムーミンママはムーミンのママだろうがどうか。いや、別にばれてもいいけど」ということは考えてもいいのではないかと言う話。


(2012.5.11 配信)